
高崎だるまの歴史について
高崎だるまの始まり
始まりは、延宝5(1667)年に東皐心越禅師が開山した禅宗の一派である黄檗宗の少林山達磨寺で、毎年正月に心越禅師の描いた一筆達磨の座禅像を配り札としていたことによる。
その後、文化年間に達磨寺の近隣の上豊岡の山県朋五郎が達磨寺九代目住職の東獄和尚に木型を彫ってもらい和紙を張って作ったのが、高崎だるまの始まりとされている。
冬に風が強く乾燥する気候がだるま作りに適しており、農閑期の副業として盛んに行われるようになった。
高崎だるまの特徴
球に近い形状の赤色の胴体にくぼんだ白い顔がついており、そこに豪快な髭と眉毛が描かれている。この髭と眉毛は鶴と亀をあらわすという。
衣服には金色の縦縞が描かれ、正面中央や顔の左右には文字が記入される。特注でここに祈願内容など独自の文字を入れることもでき、祈願のシンボルや祝儀の贈物として広く利用されている。
モデルになった達磨大師
達磨大師とは正しくは「菩提達磨」といい、中国禅宗の開祖とされているインド人の仏教僧です。
弟子の曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。
5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に中国にやって来たとされている。中国禅の開祖。『景德傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。
インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。
確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがある。
置物のだるまの目が見開いている理由
達磨大師は壁に向かって9年間座禅を組んでいました。長い間、眠らずに座禅を組むのは大変なこと。そこで、達磨大師はまぶたを切り取って眠らないようにしました。
張り子のだるまがカッと目を見開いているのは、まぶたがなくなった達磨大師を表しているからです。
ひげの理由
達磨大師はインド人だからもともと髭が濃いのです。そして、9年もの間、髭もそらずに修行をしていた姿ですから、だるまは髭面でなくてはいけません。
だるまの置物が赤い理由
インドのような暑い国では、日差しを避けるために頭からずっぽり布をかぶります。それと、赤い色は仏教では位の高い人の印になります。
そのため描かれる達磨大師は、赤い布(法衣)を頭からかぶっているのです。
縁起物のだるまは、赤い法衣を身にまとった座禅姿と、江戸時代、庶民の間に禅宗が普及したことと、当時の恐ろしい流行病であった「疱瘡(天然痘の俗称)」や「はしか」などに赤ちゃんが掛からないようにとの魔除けの意味が結びつき、赤く塗られました。
願掛けの縁起物になった歴史
だるまは、禅宗の開祖である人物、「達磨大師」が座禅を組む姿をかたどったものです。
江戸時代頃から「起き上がり小法師」とも呼ばれ、「何度倒れても起き上がる」ことから願いを託す願掛けの縁起物になっていきました。
「開運だるま大百科」より